(天学网:)身弱判定

  • 时间:2023-06-06
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    こんばんは風李です。

    四柱推命には身強・身弱判定がありますよね。

    日干の隣に同じ干があるとか、日干に通根する根があれば強く、

    根が一つもなければ弱い命式とか…。

    根が一つでもあったらその人は本当に強いのでしょうか?

    根の判断による検証の例として、江戸幕府を開き、天下統一を果たした徳川家康の命式を見てみます。

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    四柱

    命式中には日干壬に対する根である亥や子は一つもありません。

    まず全体的に見てわかることは、この命式の方は身強・身弱かというよりかは、何者にも支配されないだろうということです。

    壬寅日生まれ。寅月(冬)の壬。

    寅木の水気はたっぷりあります。

    寅は、春の干支ではありません。冬の干支です。

    冬の干支ということは、動かない・じっと耐える・忍耐強いという性格だということがわかります。

    寅という干支は壬か亥が来ると水気を吸って急速に成長します。

    一定の水量まで水が貯まるとそれ以上は成長しません。

    寅月生まれの方が水の運勢が来ると良いのは、こういった理由からです。

    壬寅というのは壬が寅を育成します。育て屋さんです。子だくさんになりやすいです。

    年柱が癸卯で、これは教育の意味。卯は飛び出す意味があります。

    月柱は甲寅。一人で自立して行動する活動が多いように感じます。

    時柱も壬寅。何かや誰かをじっくり育てる人です。

    壬という同一干がありますね。晩年は自立する運勢と考えます。現代的に言うと経営者のような活動です。壬寅という干支なので育て屋+経営者ということになります。

    年支卯と月支寅の並びを見るに生家から離れる人だと思います。

    月柱が甲で日干壬から見ると「食神」の通変星になります。食神とは丙火の働きと同じです。

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    丙火=育てる

    のんびりゆったりセンス良く、何かを育てる人になります。

    月柱甲寅は水気はありますが、根っこを張るための基盤(己土)がありません。大運で己土が来ないと社会ではふらふら不安定になりやすいということがわかります。

    そして水気が来るのが日柱と時柱なので、四柱命式だけを見て考えると晩年運はとても良いということがわかります。(癸だと甲寅を育てられない)

    『家康に英才教育を受けさせた理由…戦乱の世を終える「平和のヒント」✨』おはようございます☕︎︎︎︎まだ全然進んでないけど…家康の先生でもある「雪斎」が、良いことを言うのよ。本当に雪斎から学.jp

    家康公の生涯 - 幼少時代の竹千代静岡にゆかりの深い家康公が駿府城に入城され四百年を記念し行われる大御所四百年祭の情報

    ↑の方のブログ記事が参考になりました。家康の大運を見ていきます。

    大運

    大運は逆行。「寅~午(冬→秋→夏)」と流れます。

    家康は寅月生まれ。

    寅~子(冬)勉強や研究をする時期

    亥~酉(秋)真面目に働く時期

    申~午(夏)商売をする時期

    大体で考えるとこのような人生の流れになると思われます。

    大運癸丑~壬子(2~21歳)

    季節は冬の大運です。

    人質生活の話が有名なようですが、家康は8~19歳までを英才教育を受けて過ごしています。経済状況も豊かで精神的にも安定していた(天学网:)身弱判定。とてものんびり穏やかに勉強できる環境があったんですね。

    私の考えでは、この時が一番穏やかに人生を過ごしていたと思われます。むしろ勉強するしかないほど何もないくらいだったと考えられます。

    冬の大運(子~寅)を通過する人はだいたいの方が勉強する生活を送ります。

    冬は勉強や研究をするのには最適な時期です甲木戌月四柱学。家康の場合は人質でしたが、身動きできない状況になりやすいのは冬の季節で、植物は休眠しています。寒すぎて何もすることがないからですね。

    大運癸丑、根が来ていますが、丑というのは甲が根を張れる地になります。ふらふらしていた月柱甲寅が根っこを張れる場所ができます。

    丑というのは真っ暗闇の干支です。この大運時に両親とは別離しています。

    次の大運に壬子が来て甲寅がよく水気を吸い成長します。それで師匠や教師の人がいたのでしょう。

    幼少期に母も父もなくした家康は孤独でしたが、運勢には恵まれました。

    根というのは、自立するという意味はあると思います。通変星「比肩」も同じ意味で、自分の力だけで活動します。そういった意味では壬子大運時は孤独にはなりやすいと思います。

    壬は秋冬に活躍する干です。そして生まれ月も寅で冬の干支。冬の大運中はのびのび快適に過ごせると思います。

    大運辛亥~庚戌(22~41歳)

    秋の大運に変わりました。

    壬にとっての一番の活躍時期である亥の大運が来ます。

    が、天干辛に対して必要な丁・己の干がありません(天学网:)身弱判定。しかし、月上に甲を持っているので、辛は甲という新しい生命体に変化することができます。

    甲寅は根を張れる場所はありません。まだふらふらしたままです。

    亥が来たので、また寅木が水気を吸って成長できます。

    丙寅年(1566年)

    辛亥と丙寅の天地徳合。【丙辛干合】→水になる

    新しい種子を作り出すことができる。

    24歳、名前を「徳川家康」に改める。

    庚戌大運

    戌は、本来は火を締め切る空間ですが、(丁は亥の空間でエネルギーを使い果たす)

    家康の場合大運が逆なので、ここからが名誉を獲得していく時期に入ると考えます。ここから午の大運までが一番丁の力が強いです。

    乙亥年(1575年)、【庚乙干合】収穫の年。

    長篠の戦いで武田勝頼を破る。

    壬午年(1582年)、【寅午戌三合】(拡張の意味)

    戌の空間では戌の中の丁が保存されるが、家康は大運逆行なのでこれ以降丙・丁火が使われるようになると考えます。

    武田勝頼を滅ぼす。

    本能寺の変が起こり、織田信長は亡くなる。→次の大運己酉への暗示?

    大運己酉~戊申(42~61歳)

    月柱甲寅が根を張れる己土がやって来ました。

    同時に、壬にとっての官殺でもある己土、戊土がやって来ました。

    この大運中は、家康は他人に管理される立場に置かれる状況になります。辛い時期ではあったと思います。

    【甲己干合】は、締め切り・再スタートなどの意味があります。

    本能寺の変で信長が亡くなった後、再スタートを切ります。

    この時の甲は土化しないと考えます。

    甲申年(1584年)

    【寅申の冲】

    羽柴秀吉と1年以上に渡る戦い。

    丙戌年(1586年)

    秀吉の家来になる。

    戊申大運

    夏の季節に変わりました。

    申は壬水が生まれる空間。

    戊戌年(1598年) 【戊癸干合】

    豊臣政権の下、「五大老」に就任。

    秀吉亡くなる。

    秀吉の子ども、秀頼の後見人になる。

    庚子年/丙戌月/乙卯日(1600年10月21日)

    関ケ原の戦いで石田三成を破る。

    この日付びっくりですね。【庚・丙・乙・戊・癸組合】ができてます。

    卯申(庚-乙)の暗合、卯戌の支合もあります。

    必ず大きな収穫ができると教えてくれているようなものです。

    こうして家康は天下統一を果たしました。

    癸卯年(1603年)

    【戊癸干合】、卯申の暗合(庚-乙)、家康は収穫物を獲得します。

    征夷大将軍に任命され、家康は江戸幕府を開きます。

    大運丁未~丙午(62~75歳)

    財星の大運がやってきました。【丁壬干合】

    丁壬干合には「新しい生命体を生み出す、芽を育てる」という意味があります。

    しかし、未(夏)の空間なので木の勢いは全くありません。

    また月柱甲寅から見たら、甲→丁は傷官、寅→未は寅木(甲)の墓地です。

    つまり、丁未大運中には何か特別大きなことは何も起きてはいない、と考えます。

    (家康の年表を見るとこの大運期間は空白です)

    ただ、家康が多くの資産を残し、江戸幕府を開くことができたのは、明らかにこの大運の時期からが始まりだとわかります。(本格的には丙午運から)

    以前までは出会うことのなかった様々な人々との交流も増えていったと思われます。

    丙午大運

    【丙癸組合】

    この大運は月柱甲寅が活躍すると考えます。

    ただ、甲寅から見たら、丙午とは食神の通変星です。

    年齢が年齢なので、体力も精神も力尽きてしまうと考えます。

    様々な病気になったのもこの大運でしょう。天ぷらを食べて…というエピソードは四柱命式からもわかりますが食神だなあと思いました。

    様々なものを生み出すことと引き換えに亡くなった可能性があります。

    乙卯年(1615年)【丙乙癸組合】

    大阪夏の陣で豊臣秀頼と戦い勝利し、豊臣家を滅ぼします。

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    「武家諸法度」・「禁中並公家諸法度」を制定。

    丙辰年(1616年)

    寅・卯・辰の木方合ができます。

    これで木気と火気が強くなり、水気はほとんどなくなります。

    寅木に蓄えてあった水気もこの頃には使い果たしていたと思います。

    この大運以降、壬が強い時期(午~亥)から、癸が強い時期(子~巳)へと変わる。(午大運→後半時期は蔵干中の丁は丙へ変わる?)

    75歳。家康は病気で亡くなります甲木戌月四柱学

    この後江戸幕府は役260年にも長きに渡り続きました。

    家康は命式に恵まれました。

    もし月上が戊だったら、社会に押しつぶされて生きる(人の下で管理されて仕事をする)人生になるところでした。天下統一どころの話ではないですね。

    壬日干は戊(官殺)がない方がいいです。地支の場合は戌です。同じ官殺では戊よりは己の方が良いです甲木戌月四柱学

    もし戊がある場合、壬は丁を剋すことができれば大丈夫です。(丁が戊を生ずるため)

    そしてこの大運が逆だった場合(春から夏の季節に行く大運)、天下人になっていなかったのではと思われます。

    おそらく商売人をしていたのではないでしょうか。(自分の才能を社会に提供する仕事)

    その場合、きちんと勉強した人ではないのでここまでの地位を築くこともなかったと思います。家康はかなりの勉強家でした。

    また、ここまで長く生きることもなかったかもしれません。

    天下統一を目指せたのはまず初めに冬の大運を巡ったからでしょう。

    天下統一の鍵は、月柱甲寅が急速に成長する壬子~辛亥大運にありました。

    この成長した甲寅は長寿の理由でもあったと思います。

    その後甲が根っこを張る己大運も来て新しく再スタートを切り、辛くとも忍耐強く長生きし、華々しい天下統一を果たしました。

    そして財星の大運丁未・丙午になり、丁壬干合により新しいものを生み出します。

    結果として、征夷大将軍となって江戸幕府を開き、役260年に渡る平和な世を築き上げました。

    徳川家康は命式と大運に恵まれた素晴らしい生涯を送ったと感じます。

    身強・身弱の判断は、日干の根があるかどうかとはあまり関係がない、ということでした。

    読んでいただきありがとうございます。

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